サンマルコ修道院のすぐそばにある広場です。この広場に面したサンティッシマ・アヌンツィアータ教会もとても見応えがあるので、是非訪れてみて下さい。
Piazza Santissima Annunziata
サンティッシマアヌンツィアータ広場
Piazza Santissima Annunziata, Firenze
フィレンツェのドゥオーモを背にして、サンマルコ広場方面に伸びるVia dei Serviを進むと、サンティッシマ・アヌンツィアータ広場に突き当たります。
広場は、割とのんびりしていて、私もフィレンツェで大好きな場所の1つです。
真ん中にある像は、ジャンボローニャ作フェルディナンド1世の騎馬像(コジモ大公の息子で、フランチェスコ1世の弟)。
像を見た瞬間に、娘が、”Cavallo ciccione !!”「太っちょ馬っ!」と叫びました。確かに(汗)、それまで意識したことはなかったけれど、かなり太った馬です。フェルディナンドはリヴォルノ港を完成させ海運貿 易を活発にして、マレンマ地方の開拓にも成功して、トスカーナに多くの富をもたらした人です。「馬も肥える」トスカーナだったんでしょうね。子供の直感っ て凄い・・・。
さて、この像には面白いエピソードがあります。
もともとこういった人物の記念像は、その人が亡くなった後、その人の功績を称えて、後の時代の人が発注し作らせるのが慣習でした。
所が、巨匠ジャンボローニャに自らの騎馬像を作らせたかったフェルディナンド1世は、当時、80歳だった巨匠が、自分より先に亡くなることを心配し(笑)、自ら生前にこの像を発注します。その後、フェルディナンドとほぼ同時、騎馬像の完成前にジャンボローニャが亡くなり、その後、弟子のピエトロ・タッカによって1608年に完成されます。
騎馬像を作るにあたっては、サント・ステファノ騎士団が北アフリカに遠征した際に海賊から奪い取った大砲の砲弾(それとも、砲撃を受けた際の弾?)を溶かして使ったそうです。敵軍の大砲の弾を溶かして何かの像を作るって結構当時は一般的であったようです。
完成前のフェルディナンド1世の騎馬像の噂を聞きつけた、フランス王妃マリー・ドゥ・メディシス(メディチ家出身でフェルディナンドの姪)は、ジャンボローニャに自分の夫、アンリ4世の像を発注します。
ところが、ジャンボローニャがあまりに高齢で、先に亡くなってしまうのではと心配した彼女(笑)は、当時ほぼ完成していたフェルディナンドの騎馬像の馬の 部分を譲ってくれるようにと叔父に頼みます。フェルディナンドは自分の像が馬なしになってしまうのを懸念し(笑)、その頼みを断り、馬の部分の型を取らせ ることを薦めます。
こうして、アンリ4世の騎馬像は、フェルディナンド1世の騎馬像から取った型を元に、フィレンツェでジャンボローニャの弟子によって作られ、フランスに送 られたのです。当時ポンヌフに設置されたイタリア国王アンリ4世の騎馬像の馬は、フィレンツェにあるフェルディナンド1世の騎馬像と全く同じ馬だったそう です(その後、フランス革命の際に、アンリ4世の騎馬像は破壊されてしまいます)。
フェルディナンドの前方には、「ドゥオーモ」。
像の後ろ側には、↑こんなものが。一見すると現代美術のようですが・・・
これは、フェルディナンド1世のシンボル、「60匹の働き蜂に囲まれた女王蜂」です。
メディチ家の当主はそれぞれ自分のシンボルというものを持っていて、メディチの家紋と共に、ゆかりのある建物や彫像にくっつけていたんですよ。
「女王蜂=トスカーナ公国の安泰に貢献したフェルディナンド1世」という意味だそうです。
ちょっと長くなったので、続きは後程・・
このコンテンツでは、ブログ「フィレンツェ田舎生活便り2」で、私が、訪れたフィレンツェの教会や美術館について日記風に感想を綴った記事をまとめたものです。絵画作品や教会内の写真の一部はWEB上にある利用フリーの画像素材を使っています。現在は、全ての教会や美術館ではフラッシュ撮影は禁止、フラッシュなしの写真撮影も禁止している所が多くあります。今まで残ってくれた美術品に感謝しながら、これからも長く保存していけるように、鑑賞したいものですね。
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