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サイト名(テキストリンクでお願いします):
フィレンツェ情報サイト「ラ・カーサ・ミーア」

http://www.lacasamia.jp/

以下は紹介文の1例です。スペースにあわせて変更していただいて結構です。

「イタリア、フィレンツェで短期滞在型アパート情報や滞在情報を発信しています。」

フィレンツェ小話 コジモ1世の悲しみと栄光

このコンテンツでは、ブログ「フィレンツェ田舎生活便り2」で、フィレンツェの歴史上の人物、今に残る建物や芸術作品について歴史上の出来事と絡めて綴ったものです。 フィレンツェ旅行の出発前に読み物として楽しんでいただければと思います。

絵画作品や教会内の写真の一部はWEB上にある利用フリーの画像素材を使っています。

Cosimo I
コジモ1世の悲しみと栄光

さて、ピッティ宮へと住居を移し、子供にも恵まれていたコジモ1世は、軍港としてのリヴォルノの都市開発事業、マレンマ地方の農業開拓事業ためにしばしば、ピサやリヴォルノを訪れていました。

1562年10月、当時体が弱かった妻エレオノーラの静養のためにと、息子ガルツィア(15歳)、ジョヴァンニ(19歳)、フェルディナンド(13歳)も一緒に親子5人で3週間、マレンマ地方で過ごすことを計画します。
所が、当時、この地方ではマラリアが猛威を振るい、主治医は旅行の中止を勧めます。子供達は主治医からの計画の中止のアドバイスに耳を貸さず、とうとうコジモ1世は家族を連れて旅行をすることにします(←コジモ1世もこういうところは普通のパパ)。

そして悲劇が起こるのでした。
ジョヴァンニとガルツィアは途中で寄ったロジニャーノ城(リヴォルノの近く)でマラリアにかかりすぐに亡くなり、エレオノーラも1ヵ月後にピサで亡くなります。

3人の死をめぐっては、当時様々な憶測を呼びます。
当時のヨーロッパの宮廷には、コジモ1世によりフィレンツェから追放された貴族が沢山居ました。彼らが発信元となり、兄弟げんかが元での家族内の暗殺事件としての噂話を流します。この作り話はかなり後世に至るまで、信じられていたようです。

一度に家族3人を失ったコジモ1世の悲しみは計り知れません

コジモ

←これは、フィレンツンェのシニョリーア広場にあるコジモ1世の銅像(ジャンボローニャ作)です。この銅像の前で写真を撮るツーリストは沢山居るのですが、台座についているレリーフを見ている人は余り居ません。
レリーフは何れも、コジモ1世の生涯の大きなイベントを表しています。

「トスカーナ上院よりトスカーナ大公の位を授けられるコジモ1世」

「ローマ教皇ピウス5世よりトスカーナ大公の称号を授けられるコジモ1世」

「シエナへ入城するコジモ1世」

コジモコジモ

所で、コジモ1世の「1世」って何の一世だと思いますか?

もともと、王家の出身ではなかったメディチ家。
これだけ繁栄し、ヨーロッパ中に大きな影響力を持っていたとはいえ、所詮は、銀行家、何のタイトルも持っていなかったのでした。
そこで、フィレンツェのみならず、トスカーナ地方を支配するオフィシャルな称号をもらうことがコジモ1世の長年の願いでした。

まずは、「トスカーナ公」の位を手に入れます。ローマ教皇によりでっち上げられたメディチ本家の当主アレッサンドロが初代のトスカーナ公(duca di Toscana)であったので、2代目のトスカーナ公としてCOSIMO IIと名乗っていた時期もあります。

彼が登場する以前のフィレンツェは、代々フランス王家と同盟を結んでいました。所が、コジモ1世以降、フィレンツェは神聖ローマ帝国の支配下に収まります。

更に、トスカーナ公国としての独立を図るべく、1569年にローマ教皇ピウス5世より「トスカーナ大公」として戴冠されます。
「大公」(gran ducato)の称号は神聖ローマ皇帝より与えられるものなのですが、当時イタリアにも広がりつつあったプロテスタント運動の抑圧することと引き換えにコジモ1世がローマ教皇と取引をしたようです。

こうして、初代トスカーナ大公として「コジモ1世」になったのです

コジモコジモ

年代的には前後しますが、1552年にシエナ(フランスと同盟)がフィレンツェ(神聖ローマ帝国と同盟)に対して反旗を翻します。
激しいシエナ人の抵抗もむなしく、3年後の1555年4月17日、フィレンツェ軍の支配下に置かれます。この3年間でシエナの人口は4万人から6000人にまで減ってしまったそうです。

↑これはコジモ1世によるシエナ占領のレリーフです。シエナの町の扉が開かれ、コジモ1世が入城する様子が描かれています。

フィレンツェのシニョリーア広場にいらしたら、ちらっとレリーフも見てみて下さい。
なかなか興味深いですよ。