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サイト名(テキストリンクでお願いします):
フィレンツェ情報サイト「ラ・カーサ・ミーア」

http://www.lacasamia.jp/

以下は紹介文の1例です。スペースにあわせて変更していただいて結構です。

「イタリア、フィレンツェで短期滞在型アパート情報や滞在情報を発信しています。」

フィレンツェ小話 ドナテッロ作ユディット

このコンテンツでは、ブログ「フィレンツェ田舎生活便り2」で、フィレンツェの歴史上の人物、今に残る建物や芸術作品について歴史上の出来事と絡めて綴ったものです。 フィレンツェ旅行の出発前に読み物として楽しんでいただければと思います。

絵画作品や教会内の写真の一部はWEB上にある利用フリーの画像素材を使っています。

Donatello
次代に流されて〜ドナテッロ作ユディットとホロフェルネス(ヴェッキオ宮殿蔵)
ドナテッロ

シニョリーア広場にあるパラッツォ・ヴェッキオの前には、ドナテッロ作のブロンズ像「ユディトとホロフェルネス」が展示されています。1980年以降、保存の為にオリジナルはヴェッキオ宮殿の中に展示されており、宮殿前に置かれているのはレプリカです。レプリカといえども、なかなか見ごたえのある作品。時間があれば、ヴェッキオ宮殿内のオリジナルも是非見ていただきたいなあと思います。

さて、この作品がヴェッキオ宮殿の前に置かれているのには深いわけがあるのです。
1446年〜1460年頃に、当時、多くの芸術家を支援していたメディチ家の当主コジモ・イル・ヴェッキオ(大コジモ)、またはピエロ・イル・ゴットーゾ(通風持ちのピエロ)のためにドナテッロによって制作されたと言われています。
当時は、メディチ家の住居であったメディチ・リッカルディ宮のパティオに置かれていたそうです。当時、ここにはドナテッロのダヴィデを初め、沢山の彫刻が置かれていたそうで、素晴らしい美術館のようだったんでしょうね。

もともと噴水として作られたのではないか?と言われています。確かに、ホロフェルネスが座っているクッションの角にはそれぞれ水の噴出し口があるんですよ。ホロフェルネスの手のひらを踏みつけるユディット、不自然な首の曲がり方をしたホロフェルネスなど、ドナテッロのドラマチックでマニアックな(汗)表現が良く現れている作品です。

それでは何故、この彫刻がメディチ家の住居から、ヴェッキオ宮殿へと移されたかというと、そこには政治的な変化が大きく関係しています。

大コジモ→ピエロ→コジモ豪華王とメディチ家の繁栄期は3代続きました。
1300年代末から1492年のコジモ豪華王の死までの100年間、メディチ家はフィレンツェ共和国政府を尊重しながらも、大きな支配力で、イタリア国内だけではなく、ヨーロッパ諸国との勢力の均衡を図り続けたのです。このため、小さな紛争はあったものの、全体的にはフィレンツェの政治経済は安定していたのでした。

所が、コジモ豪華王の後を継いだ、ピエトロ(不運のピエトロ)には先代ほどのカリスマがなく、更に、妻のアルフォンシーナ・オルシーニはローマの有力貴族の出身で、大衆をとても嫌っていたそうです。
それまでの100年間は、「民衆を大事にしろ」という大コジモの教えに従い、決して表向きにはフィレンツェの民衆を押さえつけて君臨するというような姿勢は見せず、常に大衆に人気のあったメディチ家でしたが、ピエトロの代で逆に大衆からの批判を浴びるようになってしまいます。勿論、ライバルの貴族達はコレをチャンスに、少しずつ反メディチの風評を広げます。

1494年、フランス国王シャルル8世がイタリア遠征を行い、ナポリまで南下します。
途中、フランス軍がフィレンツェを通過するにあたって、フィレンツェはフランス軍による略奪の危機にさらされます。
当時のメディチ家の当主であったピエトロが、フランス軍の駐留地へ行き、フランス軍の数と脅威を目の当たりにします。シャルル8世はトスカーナを通過する許可を与える代わりにフィレンツェの街には入らない、但しナポリ侵攻が終了するまで、ピサを初めとしていくつかの街をフランス軍の占領下に置くという条件で合意します。

ピエトロが戻ると、フィレンツェ人はフランス軍の市内侵攻を避けたピエトロの交渉内容を評価するのではなく、ピサをフランス軍の支配下に置いてしまったということについて、ピエトロを猛烈に批判します。
そして、その年の11月にメディチ家の全てのメンバーがフィレンツェから追放されます。(結局、この後、フランス軍は、ピエトロとの条約を破り、フィレンツェを略奪しながら通過するのでした)。
メディチ家を追放した際に、フィレンツェ政府は、「メディチ宮を略奪してよい」という条例を出します。勿論、この条例を一般市民に出す前に、フィレンツェ政府が先にめぼしい美術品を運び出したことが想像されますが(苦笑)。

長くなりましたが・・・・。 そこで、このドナテッロのブロンズ像もメディチ宮からヴェッキオ宮殿へと運ばれたわけです。

ドナテッロドナテッロ

1495年12月21日に運ばれてきたこのブロンズ像につけられた台座には、「民衆に対して暴政を行った者の例」として
"EXEMPLUM SAL . PUB. CIVES POS. MCCCCXCV"
と刻まれています。
勿論、「ユディトとホロフェルネス(暴君)」のストーリーにもかけているのでしょうが、どちらかと言うと当時のメディチ家に対する民衆の怒りという意味合いが強いようです。
メディチ家はそれまで、暴君では決してなく、共和制を常に尊重してきたのですが、ピエトロの代で、「民衆の怖さ」のようなものを忘れてしまったんでしょね。

メディチ家の虚栄を批判し、美術品などのぜいたく品を排除する運動を行った修道士ジロラモ・サヴォナローラがメディチ家をフィレンツェから追い出したとする歴史本も沢山ありますが、当時はもっと複雑な政治的策略と、フランス国王の侵攻におびえる民衆の不安定な心理が絡まってメディチ家がフィレンツェから追放されたのだと思います。